戦前のロサンゼルス五輪、ベルリン五輪以来、早大漕艇部からオリンピック選手を輩出していなかったが、東京五輪には4種目に9名を送り込んだ。体格では劣るが、情熱と創意工夫で偉大な体力と技術を身に付けた「えび茶戦士」達の逸話は今も多く語り継がれる。戦後の第1期黄金時代である。
1964 「東京オリンピック・早大から9名が出場」

1965・1966 「全日本選手権エイト2連覇」
早大漕艇部の最終目標は全日本選手権エイトを制覇し、エイトで国内最強となることである。このとき東京五輪出場者を軸とした早大エイトは国内最強の座を守り、ワセダの黄金時代が続いた。しかし67年以降~現在に至るまで、準優勝(72年、92年)や、大学選手権に優勝しての大学日本一(96年)はあるものの、真の「エイト国内最強チーム」の座からは遠ざかっている。しかし現在そのためのチームづくりは着実に進んでおり、早大漕艇部の最終目標の再現は一歩ずつ近づいてきている。

1972 「早大エイト、全日本選手権で準優勝」
早大エイトは最強の呼び声高かったが、決勝では世界選手権代表を中心とする社会人チームの東レ滋賀に惜敗。66年以来の全日本選手権エイト制覇を逃す。

1976 「モントリオール五輪エイトには、金康が出場」
金康健司(昭和52年卒)が東京五輪以来の日本代表としてエイトで出場。
1978 「早慶レガッタが聖地・隅田川へ回帰」
隅田川とは東京を代表する風景の一つであると同時に、早慶のボートマンにとっての「聖地」である。第1回(明治38年)隅田川で早慶レガッタを行って以来、早慶レガッタは例外こそあれ原則、隅田川で行うものだった。ところが川の汚染、護岸工事、地下鉄工事等で昭和37年(1962年)以降16年間、早慶レガッタは隅田川を離れ、戸田コースや荒川で行われていた。それがこの年・昭和53年(1978年)から再び「聖地」に早慶レガッタが帰ってきた。以降現在に至るまで、毎年隅田川で開催されている。
余談だが隅田川にかかる橋はボートレースが可能なように、橋げたの間隔が最低でも35m(ボート2杯がならんで通過可能)あいている。これは早慶両校ボート関係者が東京都に申し入れた結果、実現しているものである。




































