ボート

早稲田大学漕艇部

歴史・伝統

1932 「小説『オリンポスの果実』作者は早大漕艇部でオリンピック出場」

昭和7年、早大エイトはロサンゼルスオリンピックに出場したが、そのときのメンバーの一人・田中英光(昭和10年卒)は太宰治に私淑、卒業後に作家となり、オリンピックでの経験を基にした小説「オリンポスの果実」で文壇に登場する。作品は名作文学の一つに数えられ、幅広く読まれている。


1944 「幻の“第16回早慶レガッタ”」

昭和19年。部員たちにも出征の時が迫っていた。残り少ない時間をいかに過ごすか、あれこれ考えた部員たちの結論は「時の許す限りボートを漕ぐ」だった。4月。いつもなら早慶レガッタの行われる時期だ。慶應の部員達と話をするうちに「レースをやらないか」ということになる。互いに部員の大半は帰郷して入隊準備に入っており、レースどころではない。しかし残った部員たちは「昨年の第15回で公式戦は終わったけれど、部員がいる限りは続けるべきだ。審判、コーチ、観衆がいなくとも選手がいればレースは出来る。たとえ、それを誰が知らなくとも、自分達だけが知っていれば良いじゃないか。」慶應側も激しく熱し、ついに艇を並べることになった。1250m。早稲田が先にゴールしたが、勝ち負けなど関係ない。ゴールでは早慶互いにヤッタ、ヤッタゾと両手を挙げて健闘を称え合い、両校校歌、応援歌を唄いまくった。すがすがしくも切なく、部員達はボートに一時の(もしくは永遠の)別れを告げたのである(正式の第16回早慶レガッタは終戦後、昭和22年開催となる)。



1947 「焼け跡で再開した早慶レガッタ」

B29は墨田深川方面で20万人を焼きつくす。早大艇庫は戦火を奇跡的に免れたものの、火事で全焼する。日本中が崩壊し放心状態で食糧すらなく、皆が生きることで精一杯。「だからこそ」戦地から帰ってきた部員たちのボート部再建への情熱は一層かきたてられた。木片を拾い集めてバラック小屋の合宿所を建て、焼け残った他大学の艇を譲り受けて練習を再開。そして昭和22年(1947年)早慶レガッタをついに再開する。勝利したのは慶應だったが、第1回大会からの優勝旗も焼失しており、表彰式は賞状だけだった。


1957 「小学校の教科書に載った『あらしの早慶レガッタ(沈没レース)』」

昭和32年5月12日の第26回早慶レガッタ。コンディションは大雨と春特有の強風に満潮が重なり、大荒れとなった。慶應クルーは順調にスタートしたが、早稲田は浸水が激しく、コックス島田はこのままでは沈没は免れない、何としても艇を沈めずにゴールしようと決断。前代未聞のことであったが、8人中6人に漕がせ、2人が予め積んでいたお椀で水をかきだし始めた。一方慶應は先行したものの、駒形橋の手前でみるみる沈没し、早稲田は6人漕ぎでその横を漕ぎぬけ、そのままゴールした。大正10年ごろ、秋の台風で艇庫が浸水した時、真っ先に艇庫に駆けつけた選手がいた。その名は浅沼稲次郎(大正12年卒)。彼はのちに政治家となり、社会党を結成し、委員長となるが昭和35年(1960年)、日比谷公会堂で演説中に右翼の少年・山口二矢の凶刃に倒れた。

早稲田は「何としても艇を目的地に着けるのがボートマンシップ」、慶応は「全員が最後までオールを休めず漕ぎぬくのがボートマンシップ」とそれぞれの信念を貫いた結果だった。審判は「ゴールを果たした早稲田の勝利」との裁定を下した。早稲田クルーは「好コンディションの下で再レースを」と慶應側に申し入れたが、慶應は「審判の裁定に従う」として負けを認め、早稲田の勝利となった。この沈没レースは美談となり「あらしのボートレース」として小学6年の国語の教科書にも取りあげられたほか、様々な意味で語り継がれることとなった。


1962 「野田知祐(昭和37年卒、カヌーイスト・エッセイスト)も早大漕艇部で漕いだ」

現在カヌーイスト・エッセイストとして活躍する野田知祐(昭和37年卒)もえび茶のオールを友に4年間を送った。

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